あまやどり人生録

嫌なことから逃げ続けている、とある人生の慨嘆。

和解と若い

身内で起こった空前絶後のブログ開設ブームから早半年。

情報発信や意思の伝達、強いては双方の連絡やりとりに関してツイッターの手軽さに勝るものはないなぁと改めて思った今日この頃。

 

おかげで更新が半年ぶりです。

ご無沙汰してます。

 

この半年のうちに長期的な実習を2つ乗り越え、

就職活動も1週間で終わらせ、無事内定もいただきました。

無事ではなかったものの卒業論文もどうにか発表が終わり、あと残すは国家試験のみです。

 

 

そんな日々で感じたこと、もとい思い出したことがあったので久しぶりにブログを書いてみます。

 

 

先日22歳の誕生日を迎え、着実に10代から時々刻々と遠のいて行ってることを認識しました。

 

「あ〜…10代の頃に戻りたいなぁ…」

「若返りてぇ〜…」

 

そんなことをつい考えてしまいます。

 

 

よく大人(気がつけば僕ももう社会的にその"大人"ってやつになってるんですけど)が

 

「若いっていいね〜、なんでも出来るし」

「私がもう一度子供になってやり直せたらいろんなことやるのに」

 

なんて言うじゃないですか。

 

誰しもが子供の頃に周りの大人に一度は言われたことがあるフレーズかと思います。

今では言う側になってきてる現状です。

 

西城秀樹のYMCAでも

 

♪若いうちは やりたいこと

なんでも出来るのさ♪

 

などと歌われていますが。

 

 

でもふと思うんですよ。

 

いざ若返ったとして、本当にやりたいことをやるのか、と。

 

みんなそれぞれ「後悔」を抱えて生きていると思います。

 

「あの時こうしていればよかった」

「なんでやらずに過ごしてきてしまったんだろう」

 

過去に悔いを残し、現状に満足出来ず、コンプレックスになっている人もいると思います。

 

そう言う人ほど「過去に戻りたい」と思うのだと思います。

 

 

でも、ですよ。

 

「ソレ」って、今までに起こった良いことを一切考慮しない、悪いことだけを取り除こうとしているだけなのではないか、と思いませんか。

 

 

僕の座右の銘は「人生は結果論」なのですが、

その「結果」だけを見てみると、悪いことばかり目につくものです。

隣の芝は青く見えるのです。

 

とある研究結果では、人間が感じた「良かった体験」と「悪かった体験」では処理する部位が違うそうです。

そして、悪いことの方が記憶に残りやすいのだそう。

 

つまり、そんなもんなんです。

良いことと悪いことが同じ量だけ起こっていたとしても悪いことばかり気に残るものなのです。

 

良いことというものは失って初めて気がつくものなのだと思います。

人間は欲深いですから、自分が味わってる幸せには気がつきません。

 

いつまでもあると思うな親と金。

わかっているはずでも、「当たり前」になってしまうと気がつかないものなのです。

 

中学3年の頃にお寺に貼ってあった標語で

「失ったものの大きさは与えられていたものの大きさ」

というものがありました。

僕はそのとき、ちょうど部活動で引退した日だったので、まさにその胸に空いたポッカリとした感情が、その標語によって納得させられました。

 

今まで毎日会っていた同輩や後輩と、今後、わざわざ機会を設けないと集まることが出来ないんだ…

あんなに当たり前に集っていたのに、明日からほとんど顔を合わせることもなくなってしまうんだ…

そんな感情でした。

 

過去に戻ってやり直すって、そういう、今まで出会った関係を全てリセットして行う行為なんですよね。

 

戻りたい時代から離れれば離れるほど、今まで出会った人や得た物を失って、やり直す。

しかも、「今」の自分の後悔にばかり目を向けているが故に、「過去」はキラキラした思い出ばかりが残っている憧憬です。

 

中学生に戻りたいと思っていた高校生の自分もそれは新しい環境に馴染めなかったからなのであって、中学校なんてただ近所に住んでる人たちが集められただけの施設です。

おつむのレベルが似通った人たちが集う高校の方が、今改めて思い返すと居心地は良かったかもしれません。

 

高校生に戻りたいと思っている大学生の自分。確かに自分の選んだ進路はしんどかったです。

でも、毎日1時間目から6時間目まで授業を受けて、将来使うかどうかもわからない言語や計算を学び、定期的に試験を受ける。放課後には部活動。休日にも部活動。長期休暇も部活動で大会やら何やらでせわしない日々です。アルバイトも出来ないし、未成年の制約が付きまといます。

 

そうやって、戻りたいと思う過去にだって、今と同じくらいしんどいことがあるはずです。

 

理想を語るのは勝手で、ないものねだりなのは承知の上ですが、いざ考え始めると、本当に欲しいものは過去に戻ることでも若返ることでもなく、「世間体を気にせず自由に行動できる環境に身を置いて、やりたいことをやる行動力が備え合わせている、"別の自分"」というものなのだろうな、と。

 

リスク無くして成功はないですが、

そのリスクを気にせず行動を起こせたら、

如何に気が楽になるのだろう…

 

所属している施設や社会の目を気にせず、

家族や友人や世間のことも全く気にせず、

やりたいことをやっている自分。

 

そういうものに、ある種の憧れを抱いた結果、

未来の自分ではなく過去の自分に想いを馳せて「やり直したい」と感じるのでしょうね。

 

人生一度きり。

今より若い瞬間はないのだから、

やり直すために行動を起こすなら、

いつだって今日の自分がアクションを起こさないといけないんです。

 

やり直して過去に戻っても、

行動するのは過去の「今日」の自分です。

 

今日動けないやつは

過去に戻ったところで結局動けず

同じ人生を歩むのでしょう…

 

僕はきっとそうです。

今日も明日も明後日も、

「別の自分」が頑張ってくれないかなぁ…と思いながら、

どんどんと昨日、一昨日、一昨々日へと過ぎ去っていってしまうのです…

 

 

あゝ無情。

悲しき哉。

 

 

 

 

 

 

以上。

でぶしょう

家から出ず、布団から起き上がらず、ますます肥えるばかりの今日この頃。

1ヶ月半で6kgという凄まじいペースで太っております。

 

いかがお過ごしでしょうか、はやひらです。

 

このままだと1年間で48kg太りますね。

ある種の才能なのではないかと思います。

いっそどこまで太れるかチャレンジしてみても良いという思考にさえ至ります。

ですが嗜好の都合上、この辺りで抑えて痩せなければなりません。

 

三度の飯より好き食べることが好きで、出不精な私ですが、別段運動が嫌いなわけではありません。

運動に関しては球技が究極に苦手なだけです。

 

中学高校の部活動というものは放課後に運動する習慣があったのでよかったのですが、

大学生になってからは運動部は2ヶ月で辞め、サークルは1年間で辞めました。

だってあいつら酒の席になると急に悪ノリするんですもの。自衛です自衛。

 

そんなこんなで最近ようやく我が身の危機をひしひしと感じ、運動する習慣をつけ始めているのですが、高校の部活を引退してから3年を経て、身体能力の衰えていること衰えていること。

 

あまりに何もかもが出来なくなっていて自分にドン引きです。

ディクラインとはこのことです。

まさにディスユースシンドロームです。

 

「雀百まで踊り忘れず」とは言いますが、忘れなくても踊れなければ意味がないのです。

いつまでも昔の気分のままでいて、現状何も行えないただ昔の栄光にいつまでもすがりつく老害と化すのです。

「昔千里、今一里」「麒麟老いては弩馬に劣る」です。

 

「昔取った杵柄」となるよう、腐心していきたい所存にございます。

 

取り敢えず次の実習が始まる5月末までに前回の実習の時の体重まで戻したいと思いますので、みなさまの御叱正のほどよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

デブ症な出不精、以上。

 

 

 

 

 

 

 

淘汰を問うた

元気な年寄りが増えた?
最近の若者は覇気がない?

 

違うよ。

 

元気じゃない人は死んだから
元気な人が生き延びて年寄りになった。

 

若者に覇気がないのは
元気じゃない人も未だ生きてるから。

 

違うよ。そうじゃないんだよ。

 

自然淘汰された結果なんだよ。

 

 

 

 

 

ほわいとでい

3月14日はホワイトデーです。

なぜ今日がホワイトデーなのか。

それはバレンタインデーが定着してしまったがための「じゃあお返しする日を1ヶ月後に作ろうぜ!」といういつもの、企業さんが考えたイベントだからです。

最近ではすっかり根付いてしまったハロウィンから、今度はイースターにまで手を出していますね。尻軽やで。

 

 

さて、ということでホワイトデーはバレンタインデーに貰えなかった子には縁のない行事ですね。

そんな皆さんは4月14日のブラックデーに備えましょう。

こちらはお隣の大韓民国🇰🇷が起源です。

日本ではイエローデーなんてのもありますね。

 

こんにちは、はやひらです。

 

ちなみに非リアイベントである4月14日のブラックデーですが、同日にリア充イベントであるオレンジデーがございます。

 

4月14日はリア充と非リアで温度差がえげつない日となっております。積乱雲発生するわ。

 

 

さて、ホワイトデーのお返しするものには意味があるらしいですね。

 

マシュマロ:あなたが嫌い

クッキー:あなたは友達

キャンディー:あなたが好き

 

…いいですか、バレンタインに本命を渡した皆さん。

男子はこんな意味なんてこれっぽっちも考えていません。

何を返したらいいんだろうって検索掛けたらたまたま見つけて知った、程度です。

 

というか、元は企業戦略的な発端はマシュマロだった気がするんですけど、なんで一番悪い意味になってるんですかね。

 

まあ、なのでお返しをもらえただけで及第点です。

奴らはドキドキしながら母親とお返しを考えてます。そこを汲み取ってあげましょう。

 

そもそもこの意味も後付けだと思うので気にしなくていいと思います。

なんでも意味を与えたら定着すると思ってる風潮が苦手です。

 

でも花言葉とかは好きです。面倒臭いですね。

 

ちなみに私はクッキーやケーキを添えて、基本は物でお返しするタイプでした。

 

えっ、今年ですか…?

今、午前中は布団とコタツでゴロゴロして、午後からは8時間バイトです…

 

こういうイベントは小中高生が一番盛り上がるんだよ。

だからいいんです。おじさんは隠居だ、隠居。

 

はぁ〜〜〜〜〜〜若返りたい。

14歳くらいの肉体に戻りたい。

 

 

 

 

Why today White day? 以上。

 

 

震災と最新

今日は3月11日。

東日本大震災から7年が経ちました。

今でも7万3千人が避難生活を送っているそうです。

 

こんにちは、はやひらです。

 

皆さんは7年前、何をしていましたか?

私は中学2年生で、先輩方の卒業式の練習中で体育館にいました。

船酔いのような気持ち悪さに襲われたものの、よく立ち座りをする卒業式のことですから、立ちくらみだと思い、まさか地震だとは思いませんでした。

しかも東北地方で発生した、だなんて。

 

当時はスマートフォンの普及率が20%未満で、その普及率が急速に増加して行くその真っ最中でした。

況してや中学生であった私たちの中での携帯電話の所持数はそもそも多くなく、ほとんどの生徒は今と比べて外出時に情報を得るツールを持ち合わせていません。

 

そんな中、どこからか地震があったと噂が流れ、先ほどの船酔いのような気持ち悪さに見舞われたのは地震であったということを知ったのです。

 

体育館で行う部活をしていたため、卒業式の準備がされていることもあってその日は部活が休みでした。

家に帰ってテレビをつけると、どのチャンネルを回しても地震の中継でした。

 

道路や建物は何ら変わりありません。

中継は海を映していました。津波です。

アナウンサーが高いところへ避難してくださいと何度も連呼しています。

堤防沿いを車が走って逃げています。

 

到達予想の津波の高さは10〜30m

津波ってのはサーフィンをしているような、あのような形状であると思っていましたから、中継で映される海の様子からは想像出来ませんでした。

 

その後、悪夢のようなあの大津波の映像が映し出されます。

波に襲われると呼ぶより海に呑み込まれるような。

海がせり上がっているのか地面が沈んでいるのかわからないような光景でした。

 

生中継でしたから、海に呑み込まれて行く人や車、動物も映されていました。

今でも思い出すだけで胸が苦しくなります。

 

インディペンデンスデイ

デイアフタートゥモロー

2012

イントゥーザストーム

カリフォルニアダウン

 

天変地異を描いた映画は数多くあり、自然の脅威を描いたものは沢山あります。

しかし、現実に起こったソレはCGを駆使して過剰に表現されたそのどれよりも現実的で筆舌に尽くしがたい恐ろしいものでした。

なんて言ったって主人公もエキストラもテイクも存在しない、一度きりのノンフィクションですから。

そこに映し出される惨状の全てが現実で、今まさしく同じ時刻の別の場所で起こっている、生命の生き残りを賭けた必死の生存劇だったのです。

戦争を身近に感じない、平和ボケした私たちに突如として降りかかってきた「生」の現実でした。

 

 

さて、アレから7年が経ったようです。

7年です。小学1年生が中学2年生になる月日です。

被災の当事者でない私たちは7年間のうちで何回そのことを思い出したでしょうか。

 

「3月11日は東日本大震災」という意識が強い今日、熊本県であった大地震を思い出した人はいるでしょうか。

 

そして東日本大震災後にソレまでに言われていた阪神淡路大震災新潟県中越地震などを思い出したことがあったでしょうか。

 

歴史は常に動き、情報は常に更新され続け、私たちの意識に上書きをしていきます。

そして上書きされた最新の情報もその後更新されることが無いと段々と忘れて行くのです。

 

 

私の好きなSEKAI NO OWARIの曲にSOSと言う歌があります。

その1番の歌詞(全編英語詞のため日本語訳を記載)には

 

“助けを求めてる人は毎日「助けて」と叫んでる
でもその音が続くとどんどん
聞こえなくなって無感覚になっていく
1回目は「助けて」が聞こえる
でもそれはそのうち「騒音」になる
そして「騒音」は「静寂」になっていく
こんな風に言うと難しいかもしれないけれど…
世界から音が消えたことを「幸せ」と呼び
消えてしまった音は「騒音」になる
世界から叫びが消えたことで
僕らは「無感覚」になる
叫んでいた人たちは、
まるで最初からいなかったように”

 

駅前で行われる募金活動や選挙演説なんかにも同じことを感じる瞬間があると思います。

「あの人また何か言ってるよ」と思ってしまう自分がいる。

その「違和感」を端的に歌詞に言い表してくれたこの曲が僕は好きです。

知った時に、ああ、こういうことだったのか、と腑に落ちた瞬間でした。

 

1回目の「SOS」を思い出すためには奇しくも似たような新しい何かが起こることが必要です。

 

月日の流れは平等に未来を現在へ、現在を過去へと追いやります。

 

どんなことも時が来れば始まってしまい、それと同時に始まったら終わりが訪れるのです。

 

嫌なことを避け、先延ばしにし、逃げ続けている私に「自業自得」が襲いかかるその日に、私の「SOS」は誰かに届くのでしょうか。

 

時間は待っては来れないのです。

 

今日より若い日はない。

 

若いうちに死にたい。

 

でも7年前に大量の生命が失われた「日付」というだけの「3月11日」の今日、

そんなことを言うのはきっと不謹慎だと罵られるのでしょうね。

 

昨日も今日も明日も世界のどこかで今この瞬間もみんな死んでるのに。

 

「生命」は失われた量が多いほどに、出来事の重大さが強くなり、それと同時に1つ1つの「生命」は軽く扱われるものなのだな、と。

「約」で切り捨てられ、収束された「生命」の価値を一体どう扱うべきなのだろうか。

 

きっと2011年3月10日に死んだ人は、話題にこそ上がらなかったものの3月11日以降に死んだ人よりも深く悲しまれていたのだろうと思います。

 

死ぬにもタイミングが必要ってことですね。

 

いつかそのタイミングが私に訪れる日まで頑張って耐えようと思います。

 

 

 

震災と最新。以上。

 

 

 

 

 

ただ

強制されないと何事も後回しに後回しにしてしまい、

だからと言って後回しにした時間に何かするかと言われたら何もしない。

そんな日々を歩んでおります。

 

こんにちは、はやひらです。

 

忙しい時ほどあれがしたい、これがしたいと思うものですが、

いざ自由と言われると何をしたらいいのかわからなくなりますよね。

「何もしない」をいっぱいしたい。そんな人生。

 

さて、昨日は学会に参加して参りました。

勿論、自発的にではなく「強制」されて、です。

 

ここだけの話、どうやら学生の参加人数が芳しくなかったようで偽客として召喚された模様。

 

学会のテーマは興味のあるものだったので別にいいか、とは思っていたのですが

実際に聞いて見ると「新たに研究して分かったこと」の発表会であり、

「基礎知識を得ている前提」であったことから全くのチンプンカンプンでした。

そういえば前回参加した学会もそんな感じでしたね。

 

尤も、「発表」なんていうのは「みんなが知らない」から行うのであって、

周知されていることを自分で培うべきなのはそれこそ周知されているはずです。不覚でした。羞恥。

 

朝8時半から受付があり、学会発表は18時半まで。

そこから懇親会が21時まであるとのことでした。

強制召喚されて何時間の拘束だよ、と思ったことは言うまでもありません。

 

加えて参加の強制を言い渡されたのは直前であり、

そのためにアルバイトのシフトを交代してもらったくらいです。

 

因みにその後学会についての連絡は殆どなく、前日の夜にスーツでの参加を言い渡されたのみで、

全く勝手がわかりませんでした。

 

あれだけ「ホウレンソウ」を徹底しろと言う割に、

学生や部下など目下へは蔑ろにしがちだな、と思いました。

学会参加なんて殆ど経験が無いんですよ、考えてもわかりません。

 

閑話休題

 

さて、学会の内容を書いても面白くないでしょうし、

なんなら殆ど理解していないので書けないため割愛します。

 

今回私が書きたい内容は「ただ」ということです。

 

お昼の時間になりました。

来場された先生方は事前に予約した方のみお弁当を購入できるそうです。

なるほど。ということでお昼を買いに行きました。

 

そこから2時間ほど休憩があったのですがその終わり掛けのことです。

 

「お弁当余ってるから貰っていいよ」

 

そう先生に言われました。

今回の学会の開催が私の通っている学校であったことから、

参加した学生に余った弁当をくれてやるとのことです。

 

あー、予約したけど参加出来なかった先生の分とかかな。

「予約した方のみ」ということを耳にしていた私はそう思いました。

否、そう思うことが自然であり、せいぜい余りは2〜3個くらいだと思います。でしょう?

なので私はお昼も買って食べたし別にいいかなと思っていたのです。

 

ところがどっこい。

余っていたお弁当はダンボール2箱分。

 

いや、事前に予約して貰ってたんちゃうんかい、と。

何のための予約やねん、と。

 

結果、参加した学生が

お昼ご飯を実費叩いて食べ終えた後に

半ば強制的にお弁当を2つずつ受け取る結果となりました。

 

タイミングを考えてくれ、と。

せめて予め「余るかもしれない」と言ってくださればこちらだって

それをお昼に食べて、夜にもう1回食べて今日のうちに消費出来たのに、と。

 

お昼を食べた後にお弁当2つも食べられませんよ。

 

更に、夜に予定されていた「懇親会」なるもの。

こちらも「席が余っている」とのことで、

4000円程の食べ物を食べられるから来ないかと言われたのですが、

こっちはお弁当を2つも受け取っているんです。

知らない先生方ばかりの空間で、たとえ4000円の料理が無料と言われても参加する気にはなれません。

肩身が狭い中食べるご飯が美味しいはずがないのです。

500円しないお弁当を2つ食べてる方が、ましです。

 

社交辞令も存在しない立場のため、丁重にお断りして、帰宅。

家には誰もいませんでした。

 

「ただ」で頂いたお弁当を広げ、ただただ無心で頬張ります。

 

絶妙に美味しくないお弁当。

サニーレタスの上に半月切りされたオレンジが載せられ、

そのオレンジを敷くようにソースを掛けられたミンチカツが載っています。

 

何故このようなお弁当というものは半月切りしたオレンジをバランのように扱うのでしょうか。

しかもわざわざ脂物の、です。

食べさせる気が感じられません。

 

そして私は油にまみれたオレンジやサニーレタス、ブロッコリー、それから脂身の少ないサバの切り身など1/3ほどを残しました。

 

基本的に滅多に食べ物を残さない私ですが、

「ただ」で「半ば強引に押し付けられた」お弁当の具を半分近く残して、そして棄てました。

 

「無料」というのはそれと同時にその「価値」を失うようです。

 

棄てられた食べ物に罪はありません。

仮にこのお弁当をお金を払って食べていたらきっと完食していたことでしょう。

 

思えば、実習でレオパレスに住んだ際も、

光熱費が家賃に含まれていたため、空調は付けっ放し、

お風呂は湯槽にお湯を張らなかったため、シャワーを流しっぱなしで温まっていました。

 

「ただ」というのはそのものへの価値を欠き、

そのものを大切にすることを忘れさせるようです。

 

時代の変化か、生産者も消費者も安値に誘導され、

ゲームは「実質無料」が蔓延っています。

 

「課金したら負け」と言う大人がいますが、

実質無料という「お試し」に対して課金をし、楽しんでる人たちは、

従来の据え置き機や持ち運び式のハードやソフトを買って行うゲームの楽しみ方と何ら変わりないように思います。

 

ただ違うのはその際限が無いために加減をしないとソフトを購入するゲームより圧倒的に高価になってしまう点です。

折り合いをつければ課金することは「負け」でもなんでもありません。

 

寧ろ、無課金のために消費した「時間」を失うことの方が「負け」な場面が多いのでは無いかと思います。

 

数ある実質無料のアプリケーションゲームの中で自分が楽しめるものに対して課金することは負けでもなんでも無いと思います。

 

何に対しても「ただ」というのは

その代償となるものが付き纏うものだと思います。

 

「ただより高いものはない」とはよく言ったものです。

 

 

 

 

ちなみに、僕以外の家族は焼肉を食べに行っていました。ちきしょう。

 

 

「人の金で焼肉が食べたい」

「人の金で食う焼肉は美味い」

 

巷ではそう言われていますが、

私はきっと、ちゃんと自分でお金を払って

味わって食べた方が美味しく感じると思います。

 

 

ただ、ふと「ただ」について考えた日でした。以上。

 

 

 

 

開設の解説

こんにちは。はやひらと申します。

幾度目かのブログを開設しました。

 

中学生の頃、初めてブログを作った際には「自分のサイト」という嬉しさもあったことから

頻繁に更新を行い、HTMLなんかも覚えたものでしたが…

 

高校生の頃に新たに開設したブログでは初めの数ヶ月のみの更新で

その後はすっかりSNSに立場を奪われてしまいました。

 

今回は大学生になり、4年生を目前としたこの時期に

「あまやどり人生録」という「捌け口」を開設することにしました。

 

「あまやどり」と名付けたのは

苦手なことや嫌いなこと、面倒臭いことを「雨」に見立て、

「ソレら」から逃れようとする自身の生き様を比喩したものです。

 

必要最低限の労力で生きる。

頑張らないことを頑張る。

 

だって精一杯取り組んで、全力で頑張って

その結果達成出来なかったら、きっと僕はどうにかなってしまうから。

 

手を抜くことに腐心する。

そんな身も心も性根も嗜好も腐った男の人生録です。

 

きっと、自分勝手で幼稚で稚拙で陰鬱な内容になると思いますが、

どうぞよろしくお願いします。

 

 

開設の解説。以上。