震災と最新
今日は3月11日。
東日本大震災から7年が経ちました。
今でも7万3千人が避難生活を送っているそうです。
こんにちは、はやひらです。
皆さんは7年前、何をしていましたか?
私は中学2年生で、先輩方の卒業式の練習中で体育館にいました。
船酔いのような気持ち悪さに襲われたものの、よく立ち座りをする卒業式のことですから、立ちくらみだと思い、まさか地震だとは思いませんでした。
しかも東北地方で発生した、だなんて。
当時はスマートフォンの普及率が20%未満で、その普及率が急速に増加して行くその真っ最中でした。
況してや中学生であった私たちの中での携帯電話の所持数はそもそも多くなく、ほとんどの生徒は今と比べて外出時に情報を得るツールを持ち合わせていません。
そんな中、どこからか地震があったと噂が流れ、先ほどの船酔いのような気持ち悪さに見舞われたのは地震であったということを知ったのです。
体育館で行う部活をしていたため、卒業式の準備がされていることもあってその日は部活が休みでした。
家に帰ってテレビをつけると、どのチャンネルを回しても地震の中継でした。
道路や建物は何ら変わりありません。
中継は海を映していました。津波です。
アナウンサーが高いところへ避難してくださいと何度も連呼しています。
堤防沿いを車が走って逃げています。
到達予想の津波の高さは10〜30m
津波ってのはサーフィンをしているような、あのような形状であると思っていましたから、中継で映される海の様子からは想像出来ませんでした。
その後、悪夢のようなあの大津波の映像が映し出されます。
波に襲われると呼ぶより海に呑み込まれるような。
海がせり上がっているのか地面が沈んでいるのかわからないような光景でした。
生中継でしたから、海に呑み込まれて行く人や車、動物も映されていました。
今でも思い出すだけで胸が苦しくなります。
インディペンデンスデイ
デイアフタートゥモロー
2012
イントゥーザストーム
カリフォルニアダウン
…
天変地異を描いた映画は数多くあり、自然の脅威を描いたものは沢山あります。
しかし、現実に起こったソレはCGを駆使して過剰に表現されたそのどれよりも現実的で筆舌に尽くしがたい恐ろしいものでした。
なんて言ったって主人公もエキストラもテイクも存在しない、一度きりのノンフィクションですから。
そこに映し出される惨状の全てが現実で、今まさしく同じ時刻の別の場所で起こっている、生命の生き残りを賭けた必死の生存劇だったのです。
戦争を身近に感じない、平和ボケした私たちに突如として降りかかってきた「生」の現実でした。
さて、アレから7年が経ったようです。
7年です。小学1年生が中学2年生になる月日です。
被災の当事者でない私たちは7年間のうちで何回そのことを思い出したでしょうか。
「3月11日は東日本大震災」という意識が強い今日、熊本県であった大地震を思い出した人はいるでしょうか。
そして東日本大震災後にソレまでに言われていた阪神淡路大震災や新潟県中越地震などを思い出したことがあったでしょうか。
歴史は常に動き、情報は常に更新され続け、私たちの意識に上書きをしていきます。
そして上書きされた最新の情報もその後更新されることが無いと段々と忘れて行くのです。
私の好きなSEKAI NO OWARIの曲にSOSと言う歌があります。
その1番の歌詞(全編英語詞のため日本語訳を記載)には
“助けを求めてる人は毎日「助けて」と叫んでる
でもその音が続くとどんどん
聞こえなくなって無感覚になっていく
1回目は「助けて」が聞こえる
でもそれはそのうち「騒音」になる
そして「騒音」は「静寂」になっていく
こんな風に言うと難しいかもしれないけれど…
世界から音が消えたことを「幸せ」と呼び
消えてしまった音は「騒音」になる
世界から叫びが消えたことで
僕らは「無感覚」になる
叫んでいた人たちは、
まるで最初からいなかったように”
駅前で行われる募金活動や選挙演説なんかにも同じことを感じる瞬間があると思います。
「あの人また何か言ってるよ」と思ってしまう自分がいる。
その「違和感」を端的に歌詞に言い表してくれたこの曲が僕は好きです。
知った時に、ああ、こういうことだったのか、と腑に落ちた瞬間でした。
1回目の「SOS」を思い出すためには奇しくも似たような新しい何かが起こることが必要です。
月日の流れは平等に未来を現在へ、現在を過去へと追いやります。
どんなことも時が来れば始まってしまい、それと同時に始まったら終わりが訪れるのです。
嫌なことを避け、先延ばしにし、逃げ続けている私に「自業自得」が襲いかかるその日に、私の「SOS」は誰かに届くのでしょうか。
時間は待っては来れないのです。
今日より若い日はない。
若いうちに死にたい。
でも7年前に大量の生命が失われた「日付」というだけの「3月11日」の今日、
そんなことを言うのはきっと不謹慎だと罵られるのでしょうね。
昨日も今日も明日も世界のどこかで今この瞬間もみんな死んでるのに。
「生命」は失われた量が多いほどに、出来事の重大さが強くなり、それと同時に1つ1つの「生命」は軽く扱われるものなのだな、と。
「約」で切り捨てられ、収束された「生命」の価値を一体どう扱うべきなのだろうか。
きっと2011年3月10日に死んだ人は、話題にこそ上がらなかったものの3月11日以降に死んだ人よりも深く悲しまれていたのだろうと思います。
死ぬにもタイミングが必要ってことですね。
いつかそのタイミングが私に訪れる日まで頑張って耐えようと思います。
震災と最新。以上。